"視聴者の評価点数を見て30分泣いた。"「ロング・シーズン 長く遠い殺人」監督インタビュー【後編】
※※※本記事は作品のネタバレが含まれています※※※
"時間"
──老人の目線というものは監督の創作の決め手であり、かつ創作過程で一貫していていたものですよね。これは脚本から派生したものに過ぎないのか、現在の高齢化などの社会問題から触発されたものなのか、あるいは監督の個人的な創作の初心ですか?
シン・シュアン:やはりストーリーありきですね。最も適した視点でこの物語を描きたいと考えていました。『バッド・キッズ~』ではとても自然な視点がありました。それは3人の子どもです。本作でも、どういった視点で描くかを模索していました。何がいいか悩んでいましたが本作の前提となっている言葉から、その視点を見つけました。それが"年老いたタクシードライバー"です。この視点で描くのがいいと考えました。人生を振り返る資格があるのは老人でしょう。実際に人生を歩んできたのですから。
──以前、ある報道を拝見したので、失礼ながらお伺いします。本作の撮影開始前、ご家族にご不幸がありましたよね。
シン・シュアン:はい。それは本作のプロモーションを含めた取材の際にはあまり取り上げたくない話題です。この話をすることで視聴者に誤解を与えたくないんですよね。最も親密な存在の父が亡くなったんですが、父の死を宣伝に利用していると思われたくなくて。そういう感想を抱いてほしくない。父との関係はとても近かったです。脚本の執筆中、ひと月ほどの出来事でした。父が病気になって亡くなるまで、ひと月ほどだったんです。二つ目の理由は、私がストーリーを超越したものを本作で表現しようと思われたくないからです。そういう意図はありません。1人の監督として自分の感情を創作に生かすこともあるでしょうが、これは創作に利用したい出来事ではありません。とてもプライベートなことですから。
──お父様の件を話題にするかどうか、とても悩みました。しかし、死によってお父様の一生を振り返ることがあったのではないかと考えました。お父様の人生が監督に影響を与えていたようなことは?
シン・シュアン:この件だけでなく、人生で経験したあらゆることの積み重ねで自分ができています。創作に自分の経験を生かす可能性はありますが、ある一つのことが直接的に影響するとは限りません。脚本家とのやりとりの中で、私が例を挙げたとします。「あの時父にこう言われた。たぶんこう言いたかったんだろう。劇中の父子間のやりとりに似てる?」と。それを聞いて脚本家が"使える"と思えば使うでしょう。
──お父様と脚本について話はしましたか。
シン・シュアン:いいえ。もう何かを討論できるような状態ではありませんでした。
──時間が持つ力とは?
シン・シュアン:時間はすごく公平なものです。もとは"変化"と呼ばれていたものが、"時間"という名前になったのでしょう。時間は人を越えていきます。時間が通り過ぎると跡が残りますが、次第にそれも消し去ってしまいます。
──本作の視聴中、オヤジたちのパワーは最後まで途切れることがなくハッピーエンドになると思ってましたが、結末はとてもやるせないですね。
シン・シュアン:人生を描くなら完全なものにしたかったんです。人生には生も死もあるでしょう。龔彪の死に方は悲惨過ぎるし、なぜあんなに突然死んだんだと言う人がいます。しかし、それこそが本作の命題です。死はいつも突然やってきます。前もって知らせてはくれません。私が描きたかったのは現実で誰しもが目にする事柄です。
──人生とは無常ですね。
シン・シュアン:はい。それこそが人生です。
──本作で印象的だったのは、メイクや衣装です。特殊メイクを施したそうですね。映画では多く使われるそうですが今回はドラマなのに、なぜ時間と労力を使って特殊メイクを採用したのですか?
シン・シュアン:我々が描いているのは群衆です。彼らの生涯に何が起こったのか、時間は重要な概念になります。時間が、どのように彼らを越えていったのか。そして何を残していったのか。最後に残されたものをどう拭い去ったのか。我々が求めたのはただの老いではなく、そういったものを表現できる老いです。全12話で20年の間に各登場人物の身に起こった出来事を描かなければなりません。だから他に方法がなかったんです。外見を見て、それが分かるようにする必要がありました。
──静的な結果ではなく変化を表現していたんですね。彼らの身に起こったストーリーを視聴者に訴えているのですね。
シン・シュアン:典型的な例は龔彪の妻・黄麗茹ですね。老けさせたのではなく美容医療の跡を残しました。例えば鼻や顎を修正して眉やアイライン、リップラインのアートメイクをしました。彼女は若い頃、工場内で一番おしゃれだったんです。赤い靴や花、スカートは20年後も変わらず身につけています。顔に施したあれこれによって、彼女のその後を描いたのです。
曲解されることは全ての芸術作品の定めでしょう。そうなることでその作品がより価値のあるものになります。自分が表現したいもの以上に、より魅力的なものを生まれます。
──本作のテンポが遅いと言う人もいますが、その感想についてどうお考えですか。
シン・シュアン:どういう感想を持とうと、それは視聴者の権利です。douban(大手レビューサイト)で『バッド・キッズ~』に星を一つしかつけてない人がいました。「全然怖くない」とコメントしていました。その方が間違っているとは言えません。リアルタイムで共鳴を生み出せず、大変残念なだけです。もしかすると10年後に気に入ってくれるかもしれません。テンポが遅いという点に関しては、あるシーンを例に挙げましょう。第2話で王響が工場長を見舞った写真を壁に掲げるシーンです。あの写真は彼の名誉を表現しています。あのシーンはユーモアのあるセリフや素晴らしい演技以外に、特に意味はなさそうに見えます。でも最終話で王響があの写真を外して息子の遺影を掲げるシーンを見た時、あれは伏線だったと視聴者は気づくと信じています。
──とても印象に残っているシーンです。でも前提として後続話を見なければいけませんよね。現在の視聴者には作品をじっくり味わう忍耐力がないように思いませんか?
シン・シュアン:私はそうは思いません。"視聴者は賢くない、見る目がない。新しいものを受け入れない"。そういう考えを持つのは創作者の傲慢だと思います。視聴者を見くびってますから。きっと一部の視聴者は、全編ではなく短い動画として本作を見ていると思っています。あるシーンをたまたま見た時に絶妙な共鳴が起こるかもしれず、その後全編を見てくれる可能性もあります。
──でも作品を曲解されるかもしれません。
シン・シュアン:曲解されることは全ての芸術作品の定めでしょう。例えば今我々はここに座り、あなたは私の姿を、私はあなたの姿を目にしています、しかし、見えているものに対する理解が必ず正解でしょうか。伝達される過程で形を変えることもあると思います。その変化が、時には新しいものを生み出すこともあるでしょう。以前、視聴者からメールを受け取りました。第4話の、王響が橋の上で月に向かって息子の名を叫ぶシーンを見てメールをくれたのです。去年お父さんが亡くなって、いつも月を見てはお父さんを思い出している。月を見ていると、父親も彼を見てくれている気がする、とのことでした。これは私が意図したことでしょうか。私が表現したかったことでしょうか。場面写真?
──作品がリリースされると公開されたテキストとなり、視聴者の様々な反応が全て作品を構成する一部分となりえます。
シン・シュアン:はい。作品がリリースされたあとは創作者として、そういう部分にはこだわるべきじゃないと思います。リリース後、作品は視聴者のものになります。我々創作者のものではありません。視聴者のいかなる評価にも耳を傾けるべきです。
──視聴者として引き込まれたシーンはたくさんあります。エンディングの雪が降ってくるシーンは、それまでに目にした悲しみが全てあの瞬間に消え失せたような気になりました。あのシーンにはどういった意図が?
シン・シュアン:視聴者には、あの雪の意味を理解していただけたと思います。あれは慰めを意味しています。過去・現在・未来、全ての時間があの瞬間に一体となりました。口に出して言うような空虚な概念ではありません。視聴者が目にできる具体的なもので表現したくて、ずっと考えていました。あの雪の使い方は班宇の「冬泳(原題)」の表紙に書いてあった言葉からヒントを得ました。一字一句同じではないかもしれませんが、だいたいこういう意味の言葉です。"人々は水中から顔をもたげ、静かな運命の到来を受け入れる"。「全ての時間をつなぎ合わせ、登場人物たちを慰めるのに雪を使おうと思う」と班宇に伝えました。あの文章は本人が書いたものではないそうですけど(笑)。
──ネット上では謎解きが流行ってます。本作には様々な"サプライズ"が仕込まれてますよね。例えば『馬大帥(原題)』や『バッド・キッズ~』との関連などです。これは監督個人のアイデアですか。
シン・シュアン:『馬大帥』や『バッド・キッズ~』は、どちらも本作と関連しています。"ストーリーへの寄与"、これが私のモットーです。ストーリーに、より広がりを持たせ、より魅力的なものにしたい。王響がビクトリア・クラブの前で『馬大帥』に出ていたドアマンと会話するシーンは皆さん好きみたいですね。これは時間の流れを表現したかったんです。『馬大帥』では若かったドアマンが中年になっているので、時間の経過が分かりますよね。様々な手法で時間というものを表現したかったんです。
"運命"
──キャストを選ぶ際の基準は?沈墨役は18年後に、なぜ張静初に変わったんでしょう。
シン・シュアン:沈墨という役は特殊です。例えば王響・龔彪・馬徳勝・邢三・黄麗茹などに関しては20年後の姿を見た時、馴染みがないような気もするけど顔見知りのような感覚を持ってほしかったんです。でも沈墨は違います。指を切り落とした瞬間に、彼女は別人になりたかったんだと思うんです。だから20年後に彼女を見た時、視聴者には懐かしい感じを抱いてほしくなかった。彼女は別人なんです。彼女が20年間何を考え、どういう環境で生きてきたか、誰にも想像できません。だから別人として描きたかったんです。
──そういった視聴者の感情を引き込んでますね。彼女がどんな姿で登場するのか、確かに期待して見ていました。
では音楽について話しましょう。オープニング曲もエンディング曲もそれぞれ12曲ずつあります。多様な音楽が使われているのは、アーティスト出身の監督のポリシーですか?
シン・シュアン:私が音楽畑出身ということが関係しているのかは分かりません。ただ編集している際に各話のエンディングになると、いつも音楽が浮かんだんです。これはとても自然なことで、肉体的な記憶というか生理現象というか...。エンディングでは、その話の感情を必ず増幅させるような音楽が頭の中で流れました。
──特に印象深い曲はありますか?あるいは特に満足した曲は。これだ!とひらめいたような。
シン・シュアン:第10話の「美しく青きドナウ」ですね。指を鳴らした音が響いた時に、みんなの運命が一つになった気がするんです。あの重要なエンディングに合う曲を見つけられずに毎日困ってました。でもある日、編集中に息子に用があって電話したんです。そうしたら呼び出し音が「美しく青きドナウ」でした。その時に大気中を舞うような広大なイメージが湧き上がりました。そして第10話のエンディングのシーンとリンクしたんです。これは絶対に合うと思って試してみると、やはりピッタリでした。
──第10話のエンディングは傅衛軍が死体を捨てるシーンですよね。
シン・シュアン:はい。その回の彼の最初のシーンは沈墨が指を切り落とすシーンでした。あの時にみんなの運命が変わったんです。「美しく青きドナウ」は悲しみでも喜びでもない非常に客観的な曲です。目立ちません。
──抑制ですね。
シン・シュアン:はい。何も際立たせません。運命は非常に客観的なものです。何も際立たせないんです。
──「きらきら星」もすごく...。なぜ童謡を用いて恐怖を引き立てようとしたのですか。
シン・シュアン:沈棟梁役の侯岩松さん出演シーンでした。ベッドの端に座って沈棟梁が沈墨の爪を切るシーンで、最初は歌ってませんでした。でも最後に突然あの歌を歌い始めたんです。モニター越しにイヤホンで声を拾った時に、あの曲とあのシーンのギャップがすごかったんです。あの話のエンディングは、映画館の入口に立つ沈棟梁の大きな影が沈墨に覆いかぶさるというシーンですが、あの曲が鳴ると沈墨がこれまでどんな環境で育ってきたかが分かった気がしたんです。表現の空間が広がったというか、一種の連想ですね。
──音楽についてもう一つ伺いたいのですが、最終話のエンディングは「再回首(意味:再び振り返る)」ですね。本作のテーマは"前を向いて振り返らない"ですが、
シン・シュアン:「再回首」は、劇中の人物や王響に向けた曲ではありません。王響が「前を向け、振り返らずに」と叫び、若い頃の王響が汽笛を鳴らして「分かった」と答えたところで、彼の物語は終わってます。「再回首」は視聴者、自分自身、全ての創作者に向けた曲です。あの瞬間に響き渡るのは全ての感情を慰めるものです。"今宵はもう忘れがたい過去はない(「再回首」の歌詞)"。全12話が完結し、今夜はもう登場人物の心配をしなくていい、自分の生活に戻ろう、ということです。本作の全12話は夢だったと思い、自分自身を取り戻し、自分の世界に戻ってどう現実に向き合っていくかを考えよう、ということです。
昔は自分のことを若くて無鉄砲だと言ってましたが、今はもう若さは失って無鉄砲さだけが残っている気がします。でも次の言葉を座右の銘としています。「人、能く己を虚しくして以て世に游べば、其れたれか能く之を害せん」(『荘子』山木篇の言葉。「私欲を捨てこの世を気ままに生きていくことができれば、誰が彼を傷つけることができようか―いや、できない」という意味)。要するに自分を重要な人間だと思うな、ということです。
"己を虚しくして"
──監督として目指す姿は?
シン・シュアン:自分らしくありたいです。
──以前、監督が受けた取材でこういった話を聞いた覚えがあります。発言の意図を正確にくみ取れてないかもしれませんが、特に成功した監督にはなりたくないとおっしゃってましたね。"特に成功した監督"とは?
シン・シュアン:特に成功した監督とは、創作そのものの目的を超えた存在のような感じがします。成功したいから創作するということになると問題があります。創作の目的が成功することだと雑念が入りますね。創作過程で一番恐ろしいものは雑念です。創作そのもののためではなく他の目的のために創作をする。客観的にそういうことが存在するでしょうか。すると思います。でも私は受け入れられません。自分は大したことのない人間だと思っていますから。
──仕事をする上で毎回自分自身を引っ張ってくれるような表現方法はありますか。
シン・シュアン:ありません。私は実存主義者です。シーシュポスが石を押し上げる過程を楽しんでます。仕事中はいつも石を押し上げている感覚ですね。
──メガホンを取った2作品ともが好評ですが、何か特別は方法論をお持ちですか?
シン・シュアン:ありません。以前皆さんに秘訣を聞かれました。もしあれば閑魚(アリババ傘下のフリマサイト)で売ってますよ。きっと高く売れるでしょ。
──ではキーとなるプロセスはありますか?自分でも自信があるような。
シン・シュアン:敢えて一つ言うとすれば視聴者を尊重することでしょうか。
──成功する、しないということは気にせず、先ほどおっしゃった言葉をご自身の生活に落とし込むと、どんな状態をお望みですか。
シン・シュアン:今と同じがいいです。今の生活を維持して、接待などもせず黙々と自分の世界の中で作品を作り上げたいですね。普通に生活を楽しみ、息子・父親・夫としての役割をきちんと果たしたいです。服も買いたいです。そして監督として仕事をする時は、しっかり創作に取り組みたいです。
──服を買うのが好きなんですか。
シン・シュアン:はい。でも店を行ったり来たりするのは好きじゃないので、ネットで買います。毎日買い物をしてストレスを発散してます。
──爪を拝見しましたが噂は本当だったんですね。驚きました。どういった経緯でマニキュアを?
シン・シュアン:本作を撮り終えて、仲間と一緒にバイクで大理に行きました。半月ほど滞在しましたが、だんだん退屈してきて毎日やることを探してたんです。それで急にマニキュアをしようという話になって、やってみたらすごくリラックスできました。手の爪に塗るからスマホも見れないし何もできないでしょ。手を差し出して空想するしかないのが面白くて。だからハマりました。
──店に行ってやるんですか。
シン・シュアン:これは配信初日にやりました。こっちは一昨日、友人と集まった時にやりました。いつも友人と集まる時にはネイリストに来てもらいます。
──人からどう見られるかということは全く気にしてないんですね。
シン・シュアン:はい。全く気にしません。服装もそうです。スカートを履きたければ履けばいい。何もハードルはありません。ネイルをしたいからするんです。こういう人生は楽しいですよ。
──自由な生活を望んでいるんですね。監督としては、視聴者とは距離を保ちたいですか?
シン・シュアン:視聴者の皆さんには、創作者には過度に注目してほしくないですね。価値を生み出すものは作品なので、私はその影に隠れて視聴者とは距離を保ちたいです。その空間が共鳴を生み出すと思うんです。
シン・シュアン(辛爽)
中国の監督。代表作は「ロング・シーズン 長く遠い殺人」「バッド・キッズ 隠秘之罪」。
2018年、湖南衛星テレビの音楽リアリティー番組「幻楽之城(原題)」の監督を担当し、視聴者から最も人気を得た監督となった。2020年「バッド・キッズ 隠秘之罪」で第4回網影盛典(Internet Film Festival)最優秀ドラマシリーズ監督賞、今日頭条(Jinri Toutiao)娯楽大賞テレビドラマ監督賞、第3回初心榜5大青年監督賞、影視榜様・2020年度総評榜ドラマシリーズ監督賞など多くの賞に輝く。